昭和56年12月30日   朝の御理解

                    
 御理解第94節
 「信者に不同の扱いをすな物を余計に持って来るとそれを大切にするやうな事ではならぬ信心の篤いのが真の信者ぢや」                                                         
 この御教えは教師に対する御教えだと思います。先生が言うならば信者にえこひいきをする。よくある例で風体の良い信者は大事にする、風体の悪いのは粗末に扱うと、まあ極端に言うとね、そう言うような事から結局、まあこれはお取次者だけに限らん事ですけれども、結局心一つで全てを創ると仰せられるのだから、その自分の心の動きと言うものがいつも神様が喜んで下さるような心の使い方をいつの場合にでもさしてもらわなきゃいけない。 
 言うなら焦点を結局心一つに置いておかんと形についついそう言う風に表れてくる事になるのですね。そいで私はまあ思うのですけれども神様からね、言うならば特別扱いをして頂けれるような信者にお取立て頂きたいと思うですね。               結局私共の心次第、修行次第、神様が特別扱いをして下さる。昨日午前中の奉仕の時に行橋支部の堀内先生が電話かけて来ました。今朝の御祈念中にこう言うお知らせを頂いたと言うのです。『さるすべりの木にウグイスが来て止まる』と頂いたそうです。
 さるすべりと言う木がありましょう。さるすべりの木にウグイスが来て止まる、どう言う事だと思いますか。私も分からなかった。さあ、どう言うこっちゃろかねえち言うて、言いよりましたら、神様から『木違い』て頂きました。私の修行中の時分にそれこそ大坪さんなちっとこの頃おかしいちゃなかやろかと。言うなら気違い扱いされた時代がございました。
 私は神様の仰せ通りに仕っておるのに人がそう言う事を言うたんでは、神様のお顔に泥をぬるような事になる。どうぞ神様ここん所をどういかして頂いたらよいかと言うてお伺いさせて頂いたら、「確かに気違いぢゃ」とおっしゃるね。
 けれどもね普通は言うなら笹をかたげて歩くようなものを人間世界では気違いと言うけども。お前の場合は人間から神に向って違っていってるち、気が変わっていってる、もう神心に変わっていっておる。誰が何と言うても気違いと言うても、いいぢゃないかとね。 これは甘木の初代が小倉で修行なさって、あまり熱心に修行されるから桂先生が金光様に教師になるようにお取立頂く事をお願いをして来いと仰っしゃった。そいである御本部参拝の時にその事を金光様にお届けすると金光様が仰っしゃったね。親戚周囲の者がね、松太郎がこの頃信心のぼせ信心気違いになったと言われるような事では人は助からんと仰っしゃったそうです。
 それでまあ、それこそすぐすぐと教師にお取立て頂く事が出来ない事になって、又六年七年ですかねえ、小倉で修行なさいました。そこに信心辛抱の徳を受けられてお伺いされたらお許しが出た。お許しが出た時にはもう甘木に出られた時には、もう出られると同時にどんどんと人が助かったと言う。
 他のいわゆる沢山の修行生がだんだんと布教に出ますからね。他の所はなかなか道が開からんのに、安武さんの所だけはどうしてあんなに人が助かるでしょうかち言うて、その桂先生にお尋ねしたら桂先生がね。舞台裏の修行が長かったからだと、例えば役者が花道に出たら、もう出た途端に千両!と言う風に声がかかるのと同じぢゃと仰っしゃったそうです。
 舞台裏の修行が長かったからぢゃと。私はそれやらこれやら思いましてね。昨日その、行橋の堀内先生の場合がなんかでも、昨日話しましたけれど、まあある意味の天才的なものを持ってますよね。でなかったら、ああ言う心の使い方は出来ませんです。どんな場合であっても、もう本当神様が認めなさるような言うなら心の使い方が出ける。なら甘木の安武先生だってそうだったろうけれども、あまりの熱心さでに人は信心のぼせしたように言う。
 私の場合でもやっぱりそうであった。ですからあれにどうでしょう、堀内先生の場合なんかに本当に信心辛抱の力が出け徳が出けてウグイスが来て止まると言う事になって、いわゆる信心辛抱の梅の花、梅の花が咲いた時にウグイスが来て止まるならもうこりゃ最高です。                            木違い、木が違うとるち言う。さるすべりの木ね。そう言う事では私はあの人が参ってくるたんびに堀内先生、兎に角慢心を起こしたらおかげはおとすばい、これをいつも言うのです。あんたに慢心が出さえしなきゃ、あんたおかげ受けるよ、お徳受けるよと言うふうに言うんですね。
 だから、さるすべりではです。いわゆるすべり落ちる、猿でもすべると言うくらいぢゃから。落ちるような事があっちゃならんから、ここは一つ信心辛抱の徳を受けて梅の花が咲いて、そこにウグイスが来て止まるようなおかげを頂かなければいけないよと。まあそうは申しませんでした。今度来た時にゆっくり話そうと思うて。それはね。気違いと私が言うたから何か妙なふうでした。気違いと言われたもんだからね。
 しかし、こうやってお話を聞いて頂くと分かるでしょう。神様のお心と言うものが、神様がもう特別扱いになさろうとしておるでしょうが。確かにこの神様はね、心一つで全てを、だからもう本当にそう言うあざやかな心の使い方の出来る稽古をしなかったら、お願いしますお願いしますではおかげにならんです。
 初めの間はいいです。五年十年の間はいいです。けれども、もうそれこそ信心を段々していけば行くほどに言うならね。信心がいよいよ楽しうなり有り難うなり、昨日も敬親会でしたから竹内先生が司会を致しておりましたがね。                 どうでも一つお年寄りの皆さんにね。それこそ一年一年有り難うなっていく信心をして下さい。はあこれが信心の位と言うもんであろうかと思うように教祖様はね一年一年有り難うなっていくと同時に位がつくものぢゃとも仰っしゃっとられる。年を取るに従ってにぎやかになっていけれる信心をして下さいと言うような意味の事を申してましたがね。
 その心一つがまず本当に言うなら有り難い有り難いと使えれる稽古をして、それが基本にならんと有り難いが育たんです。只おかげのとこだけが基本、お参りだけが基本、御用だけが基本と言ったような事ぢゃおかげにならんですね。
 昨日はある教会で長年信心の稽古をした人が、ある難儀な問題で長年参っとるけども一つも有り難くなれない。そこでここにおかげを頂いておる方に合楽の話を聞いてお参りをして来るようになった。 昨日ここでお届けをして、それからここを下がってからあちらで御理解を頂いとられたが、又ここに出て見えましたもん、そして又お初穂を包んで見えましたもん。親先生、私はもう本当に合楽に御縁を頂いて毎日毎日嬉しゅう嬉しゅうしてと言うて涙をこぼされました。長年信心しておったけどもね。嬉しいとか、有り難いとか言う事がなかったとこう言うのです。 
 昨日の朝の御理解頂いておってです。いよいよ合楽に御縁を頂いたと言う事が何がこんなに嬉しいのだろうかと思うたら、合楽の御理解頂いて、一言でも守らせて頂こうと、行ずる気にならせて頂いたら、日々が嬉しうなってきたとこう言うのです。有り難いですね。 その嬉しいのが有り難いになり、有り難いのがいよいよ一年一年ね。有り難くなっていくおかげを受けられたらいよいよ有り難いですねと言うて、まあ二人で喜び合わせて頂いた事でございます。
 ね教えを行じなければ心一つが生まれて来ません。昨日福岡の高橋さんがここでお届けされるんです。あそこは何と言うか、何とかですね、支店の方はスタ-レ-ンの中にそれこそ気の利いた寿司屋の支店が出けております。又そこの板場ですかね、職人さんもなかなかあか抜けした、おいしい寿司を食べさせてくれる職人がおりますけれども、その欠点がいっちょあるわけ、と言うのはもう材料構いなしでにぎるわけです。
 まあ親方日の丸と言う意味でもなかろうけれどもね。兎に角材料を使い過ぎてこたえんから時々それを注意するわけですね。今度もやっぱし注意したんでしょう。又は注意はせんでも心の中でもうこればっかりはもうといつも思いよるわけでしょうね。それが相手に通じたげな。だから私はもうここぢゃ出けません、もうここぢゃ出けんから、もう今年いっぱいで退めさせてもらうと言うね。
 私がそのお取次させて頂いて、そこでふんなら高橋さん、どうぞまた退めんごたるふうにお願いしますと言う意味のお届けでしたから。言おうかと思ったけれども、これは高橋さん自身の心がそうならなければ出ける事ぢゃないですから、そしてこれが私ならどうぢゃろかと思いました。
 皆さんからどうですかね。もうこりゃもう絶対お客さんが喜んで下さるですよね。材料をよけい使うもんだからね。それこそ昔から、こりゃ商人のに言われておる、まあ教訓のようなものがね「損して得取れ」と言われておるです。もうそう言う所をすばらし…もう本当にそこを喜ばせて頂くような高橋さんになられたら繁昌するですね。心一つですね。
 そりゃ例えば沢山な修行生がおりますから様々なのがおりますね。けれどもね、これはとても私では出けないような所を持っておる人があります。今のような例の事から言うてもね。だからそれを私は有り難い。はあ、私に欠けておるものをこれがもっとると言うような思いで頂きますから御礼が言えれる。
 昨日もここで修行いたしまして、帰っておりました修行生が昨日また参拝をして参りました。岡山の方から参ってくる岩部先生が弟です。折角修行しとってから退めて帰ってしもてから大学行くとか何とか言うて帰ったんです。で昨日参って来てからあれこれとまあ断念して又来年から修行さして頂きたいと言うから、もうあんたがごと、もうその立ったりしゃごんだりすんなら出けんばいと普通なら言わなんとこぢゃろうけれども、今言うように本当に神様のお働ちわ有り難いなあ、お働きに言うならば催しに催されて又合楽で稽古をする気になった。                     信心教師としての修行をする事になったと思うたらむしろ有り難かった。したら昨日は敬親会の時でした。丁度本部の方の渕上先生どんが親子三人で参拝をして来ました。たまたまその岩部さんの話しが出たんですけれども、先日あちらのお父さんが見えましたち言うのです。そして合楽の修行を退めて帰って来とりますけれども、合楽でちゃあんと起きよった時間に起きて合楽でさして頂きよったお掃除をきちっとさしてもろうて、もう合楽でおるとと同じ日々をあの人が過ごしておりますのを見てから、親として本当に感心しますと言う話しをしたげな。
 私はね、それを聞いて例えばふんなら、あんたが事しだこだにすんなら出けんばいと言うとるならちょっとおかしいでしょう。実際は大学に行きたいと言う一念で帰ったんですけども、大学を断念してそれでもやはり合楽で修行しよったように朝も早起きをする、お掃除も時間になるとちゃあんとこう、まあ合楽でおる通りの修行をしよると言う事を聞いてですね。それこそ言わんでよかったと思うでしょうがね。
 ですから結局、心一つがいよいよ豊かに大きゅう、そして本当に自由自在にですね。使えれるようなおかげを頂く為に言うならば焦点を置かせて頂きますとね。心一つですから、不同な扱いをする事がなくなってくるです。こりゃ風体が良いから大事にする、こりゃお供えば沢山持ってくるけんで大切にすると言うような事ぢゃったら自分の心にひっかかる。
 そのひっかかるから、もうおかげにならん。いつも心の芯にしての信心ね。これはまあ合楽に傾倒してみえますとやはり、信心のない者から見ると、もうこの頃はもう本当に昨日もそうでしたが、石田先生達が御夫妻がここに参って見えてから、ある子供さん達との事でお届けがあった。そりゃあもう子供さん達から御覧になったら、もう親父どんが夫婦でもう合楽合楽でぼうけしもちからと言いよるに違いないと思うですよね。と言うくらいに傾倒しなければね。又は本当に合楽にぼうけとると言われるくらいな所まで行かんとね。 そう言う意味でほんなら高橋さんの場合なんかは、もう言うならば合楽にぼうけて何十年間、福岡から朝参りが出けたと言うのですから。ですから今言うそう言う心が育っていきよらんなら、もうこげん悲しい事はないですよ。只毎日参って来よるち言うだけであったらね、心が豊かにも大きゅうにもね。もう本当におかげおかげとこう言える合楽理念に基づく受け方、頂き方が出けれる稽古さしてもらわなければ、そして私は思うです。神様から特別の扱いを受けられるような信心にもなりたいね。
 信心をさせて頂いてね。一番有り難い事は去年の私と今年の私と言う内容がこんなにも変わっておる。言うなら物の見方、考え方がこんなにも変わっておる、変わってきたと言う事が私は信心の喜びであると同時に楽しみだと思うですね。
 物の見方ひとつでも去年の見方と今年の見方が同じであったら信心が進んどらん証拠です。ですからそう言う所に焦点を置いてです。本当におかげの頂けれる物の見方、考え方の出けれる稽古を本気でしなければならんと言う事ですね。「どうぞ」